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過去の講演要旨

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築地朝塾までの道

築地朝塾までの道

2018年11月13日朝塾 平本 和生氏講演

TBSの記者から50歳を少し前にして初めてライン部長の政治部長になった。22人の部下がおり、緊張した。記者は人様が発信する情報をキャッチして確認して正確に早く伝える作業をする。単独で何でも勝負でき、一人で自己完結する人生をやってきた。独立した存在で経営の干渉も許さないというくらいの気持ちで記者生活を送っていた。


部長になると、部下の家族構成から健康状態、残業の多さ、ネタの良しあし、早さまで全部コントロールしなければならない。我々の業界は夜討ち朝駆けが当然で朝7時に政治家の家に行き、夜は11時まで待って話を聞く。家での滞在時間が非常に短い中で、新聞や他のテレビ局に抜かれるという怖さを常時背負っている。健康状態もままならない人や心的ストレスを感じる人も出てくる。その辺をケアしないと、全体がまとまって勝負する時に勝負できない。特ダネ取ったとか自分だけが政治家と話ができるとかの自慢話だけでは組織は運営できない。そこから人間的な魅力をどう作っていったらいいのか、という新しい次元の問題に直面した。


局長になると、部下はいきなり230人になった。報道局には柱がなく、政治部、経済部、社会部、外信部がずらーっと並んで、皆すごくよく見ているらしい。指導力と佇まいは一致しなければならないと思い、背筋をきちんとして、歩き方にも注意していた。


テレビ局の最大の問題点は視聴率で、今は1分刻みの折れ線グラフ出てくるので、早く伝えるとか内容が非常に濃いというよりも、どのコーナー、どのコメントで跳ねたかということに言及し、どうしてもはねたところに特化するような特集とかコメントがどんどん出ていく。本当は下がったところに価値があるのに、昨今のテレビ局は下がったところをあまり取り上げない。私は70年代80年代の「報道のTBS」と言われた黄金時代に居たので、「現場は正論で押し、跳ねたことは言わなくていい、数字を追っかけなくいい」と言ってくれる局長や経営者がいた。そういう意味では正々堂々と報道ができた、と思う。


私は社会部で警視庁の1課担当からスタートした。殺人事件などは16社が全員同じゼロからのスタートだが、1日経つとA社が、1週間経つとB社が、というように情報と分析力にどんどん差が出る。我々が一番怖いのは抜かれることと誤報だ。抜かれたから抜き返そうと焦るとガセネタをつかみ、誤報を打つケースがある。なので抜かれてもいかに冷静になれるかということにかかり、組織も記者も胆力がいる。


政治部はこれまた大変で、水面下で動いていて氷山の一角が現れた時にはほぼ決着している。夜討ち朝駆けから得た情報に何が隠されているのか、この国をどういうふうにもっていくのだろうか、このキャビネットは、政調会長は何を考えているのかというようなことを水面下の動きから探らなければいけない。


政治部の特ダネ記事は1面トップで来る。この時は氷山の一角が見えかかっているのだが、これも怖い。政治家は誘導して書かせることがあるからだ。書かせてそっちの方にもって行こうとすることもあるので、特ダネをつかんだけれども、本当なのかどうか。反応を見てひっくり返すこともある。世論操作に使われる危険性をはらんでおり、世の中を俯瞰して眺め、情報が本物か偽物か見分けることが必要だ。


本物か偽物かを見分けるのはは人間もそうだ。政治部の記者が1番あこがれるのは大臣の車で横に乗る「ハコノリ」だ。田中角栄番だった私は角さんの車には乗れなかったが、その下の竹下登さんや野中広務さん、二階堂進さんらの車にハコノリをした。「おう、乗っていけ」と指名された時にはちょっとくすぐられるが、その人が言っていることを信用していいかどうか、これがまたものすごく微妙だ。


田中番記者は16人いて5段階に分かれ、一番上の3人は田中角栄にいつでも会える。私は読売新聞の社長をやった白石興二郎氏らと共に3人の中に入り、軽井沢の別荘に行って徹夜で話をしたり、ゴルフをしたりする仲になった。でも、言っていることを全部信用するわけではなく、いつも距離感をもっていた。誰に、何時から、どう当たる、どこで勝負するか、ということを量るのが記者の宿命で、タイミングを間違うと抜かれて左遷されるという危機感と運命共同体のような職業だ、というふうに思う。


情報源の秘匿の問題もあるが、もう一つ大事なのはコンファームだ。一般的に記者活動では、何時どこで相手に会ってテーマはこれで、私の質問はこれで、相手はこう答えました、それに対してこう質問して……と、記者が部長に全部報告を上げる。1人の情報だけで全面展開するのは危険で、念のためもう一本の支えを確認する作業が必要になる。できればもう1本、3本あれば崩れない。この作業は手間も時間もがかかるが、膨大な横書きの情報メモを基に原稿用の縦にする作業をする。それを迅速にこなすことがいつも求められる。事件の核心と全容をコンパクトな形で展開し、相手の胸に刺さり、視聴者の生活に資するよう書き上げる作業は膨大なエネルギーがかかる。私の場合、最後の着地の1行を書くのに徹夜になったこともある。


私はベルリンの壁やホワイトハウスの前で生中継もやった。ライトが点いて、30秒前から秒読みが始まると何を言っていいか段々わからなくなる。メモを見ないでものすごい重圧を感じながらやってきて自分のコミュニケーション能力がいつの間にかついた。


私が薫陶を受けた人は「汗かけ、恥かけ、手紙書け」ということをずっと言っていた。その中で最後まで残ったのは「手紙書け」だ。最近はラインとかショートメールとか日常的には事足りていると思うが、本当に大事な人には自分の整理力、伝える力を磨くためにも手紙を書くのがいい。


30年記者活動をやって言える事は、人と同じ情報を追いかけてはいけない。人が気付かなかったところで大掛かりな仕掛けに発展することもある。小さな情報も見過ごしたばっかりにとんでもないことになったということが沢山ある。きっかけをたどる検証も大事だ。抜かれたら情報が誰からどうして出たのか、だけは突き止め、カバーし挽回するよう厳しく指示した。それが必ず役に立つ、というふうに思い、自分にも責めながらやってきた。


自分は一人だけでは何もできない。やはり人の力だ。力を借りた人には力を貸すというくらいの覚悟でたくさんの人脈作っていって欲しい。岡本行夫氏が1回目の講義で「小さい座布団の上のユートピアで昼寝するな」と言っていた。自分の座布団を大きくし、積み重ねろ。それには努力をしなさいと。本当にそうだと思う。


6号になった築地朝塾新聞に毎回コラムを書いているが、その中で「あなたのプラチナカード」というのを書いた。「自分の弱点を早く知れ」ということだ。人間弱点だらけなのに弱点の海の中に溺れていると自分の弱点はどこかわからなくなる。私の弱点は戦略が立てられないということ。だから戦略を立ててくれる人を大事にしている。その弱点を埋めようとする努力が次の世界の扉を開く。自分と謙虚に向き合って弱点を補うために何をしたらいいのか考えていくのがいい。弱点を知ることはいろんなものから吸収しようと努力し、コミュニケーション能力をものすごく高める。。


私はなるべく1人称で語らないようにしている。1人称をやめると自分の弱点が分かる。1回宴会でいいから3時間1人称をやめてみるといい。相当なエネルギーが出て、自分の引き出しが増えてくる。相手の話を聞いたことに付随する連想ゲームが出来てくる。そうするといろんなことを第3者の目で見るようになり観察力が高まる。飲み会で1人称を禁止してみると意外にきつく、自己開発することがいかに大変なのかが分かる。大体みんな知ったかぶりをするが、知らないことは知らないと言えばいい。相手が教えてくれるかも知れない。それを心掛けることによって自分のプラチナカードである弱点は?点ではなくなる。


あと肩書に振り回されないということもやっている。私が76人目になるこの塾の講師はみんなすごい人ばかりだが、この人はどういう人なのか、どういう話し方をするか、どういう佇まいなのか、どういう背景を持っているのかというようなことに関心が高いので、肩書や地位とかには私は全く動じない。朝塾の新聞にも書いたが、地位は人を作らないというのが私のアセスメントだ。地位は人を裸にする、と思っている。ただ、人と会う時には経歴くらいは把握するなどそれなりに準備をして、当日の新聞くらいは読んで行くべきだ。


私は素晴らしいフレーズを聞いたり読んだりしたときに、本を読んだら必ずそこを折って線を引いて会社でメモをする。今年の春にここで講演をしてもらったPGM会長の倉本昌弘さんに初めて会ったのは昨年の11月だった。スポーツ担当のディレクターと一緒に銀座のレストラン話をしたが、倉本さんは非常に難しいことをサラッと言った。「若い人に私は『あなたはゴルフが上手になりたいのですか、ゴルファーになりたいのですか』と言っているんです」と。よく意味が分からなかった。でもその言葉は解説が不要なくらいものすごい哲学が入っている。これはPGA会長のポストが作ったわけではない。倉本さんはゴルフに対する姿勢が貫かれているからそういう言葉に収斂でき、素晴らしいワーディングを私たちに伝えてくれたのだと思う。メモにしたそのフレーズはずーっと覚えている。


私は、自分は仕事でどの辺の所にいるのか、うちの会社は業界全体でどの辺の立ち位置にいるかというのを考えたらいい、と社員に言ってきた。この前外国から来た2人に会った時に「日本をどう見ていますか」ということを聞いた。2人が共通で言ったのは「日本はとっても面白くない」と。「こんなに安心で安全で食事はうまくて清潔なのにどこが悪いの」と聞いたら、「判断が恐ろしく遅い。まったりしてどういったって答えが返ってこない。あくびが出る」と。それから「ハングリー精神もほとんどない」と言う。つまりアップグレードしてしまって完成してしまった日本を感じるというのだ。


「日本の青年には欲がない。社会貢献にも政治にも関心が薄い。だからリスクをとらない」。だから「トータルで面白くないし、頑張りがいがない」と。確かに大企業には資本も組織も過去の蓄積もあらゆるものがそろっている。大企業が戦後の日本をどんどん引っ張ってきたが、70年経ってこの社会が結構完成された姿を見せてしまっている。2人のうちの1人はここで働こうと思っているそうだが、魅力がないから香港とかシンガポールで働こうか、ということを言っていた。


日本はエスタブリッシュメントされてエンタプライズの会社が日本経済を引っ張っている。そこに呼吸ができないような閉塞感と突き破れない重い雲が立ち込めているのかな、と感じる。それを滞在僅か3年くらいの青年があっけらかんと言い放った。私も組織に対してそう見ないといけないのかなと、ものすごく参考になった。これは私が築地朝塾を立ち上げた動機にも若干共通している。2人の話を聞いてある意味私も間違っていないのかな、と思った。


大企業のパワーはすごいし、市場を押さえ、人材を抱え、データの蓄積もある。だけどあまりにも巨漢過ぎると小回りが利かなくなる。完全防衛体制も出来ているはずなのになぜ東芝問題や各自動車メーカーの不正検査事件が起きるのか。築地朝塾新聞に「危機は来る」というコラムを書いた。必ず危機は来る。今日しゃべったことの多くはその中に埋め込まれているので、もう一回読んで、危機感を忘れずに進んで欲しい。


そこに登場したのがデジタルだと思う。赤坂に三井住友銀行の立派な路面店があったが、ある日突然店を閉めて2ブロック先のスーパーマーケットの2階に移った。これはデジタルだ。これから銀行は1等地からどんどん撤退する。採用も、規模も縮小する。一番有利な手数料が無くなる。デジタルでは全部クラウド決済、キャッシュレスになっていく。今まで日本をリードしていた大企業たちが今立止まらせているのもデジタルだと思う。あらゆることに情報がつながっていく。マイクロソフトもアマゾンも収益がどんどん落ちている。多分デジタルの先に行っているのではないかと思う。


新聞情報だがアマゾンの収益率が落ちているのはフェイクニュースとか偽情報、情報流出に対する手当に膨大な金をかけ始めた。ヨーロッパで個人情報の規制法案が出来た。それによって先端巨大企業の収益がどんどん落ちてきている。その先に行っているかもしれない。なのでこれからはデジタルに対応していくことになるのだが、私の結論としてはデジタルでもアナログ人間になれ、もう1回原点に戻れ。そこをないがしろにしてデジタル、デジタルと言って大手を振っていると人間性がどんどん失われていく。忘れてはいけないものを忘れては元も子もない。だからこういう場でアナログ的に自分を収斂修行していって欲しいと思う。


大人になっていつも忘れない日野原重明さんの言葉がある。「大人というのは子どもと違う。子どもは自分の時間を全部自分のために使っていいけど、大人は自分の時間を人のために使なさい。そうして初めて大人です」。そしてこの前読んでいた本に、アインシュタインにある人が「人間って何のために生きるのですか」と質問したところ「馬鹿なことを聞くのではない。人のために生きるのが人間なのだ」というような1行があった。




質疑応答


―― 海外で仕事をするのにどういう心構えでいたのか


平本氏 国務省やペンタゴン、ホワイトハウス、国連の会見にしても、必ず相手は「日本を知っているか」と「お前は日本をどういう国だと思っているのか」と質問してくる。そうすると日本の歴史も文化も知らないと、信頼感は高まらない。自分というのを持っていないといけない。



―― 弱点はプラチナカードと思って行動したことで何か変化があるか


平本氏 私は論理的でも戦略的な人間でもないので、竹下さんがどうして創生会を立ち上げたのか、あの戦略はどういうふうなことから始まっているのかということを折に触れて本人に聞くようにした。自分だったらどうしたのか、ということを重ね合わせるようにしてきた。北朝鮮問題も不得手だったので、北朝鮮や中国にものすごく人脈を持っていた野中さんに師事した。野中の随員として行き、人民大会堂での会談の場に入れてもらったこともある。弱いところに関心を持つということから始まり、人の助けを借りる。



―― 平成に生まれた人は無気力な世代だと思うが、メッセージは?


平本氏 この塾はそうしたことを少しでも打開してほしいということで立ち上げた。原点は30代のころに誘われて行った少人数の勉強会だ。来た人は田中角栄、福田赳夫といった大臣経験者ばかりで、一人では何もできないということを思い知らされ、たくさんの人に力を借りて歯車を前に動かしていった。塾は皆さんがテンションを得て、横のつながりを使って沈滞し、面白くない日本を打ち破る一助になればという気持ちで7クール続けてきた。個として謙虚で、「コツコツ毎日」と着実に力をつけていけば、どこかでブレークするポイントが必ずある。

2018/11/26

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