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過去の講演要旨

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~信念、矜持、気概~

~信念、矜持、気概~

2017年11月14日朝塾 泉谷直木氏講演

本日のテーマでは、私の個人の生活を語らなければならないが、自慢話ではなくて、私が悩んだり経験したり、いろんな方に助けていただいたりして今日がある、という話をしたい。




社会人30年成長説


1972年の入社だが、72年ごろというのは、その後にオイルショックが2回来て、社会全体が不安定になる時期だった。「どうやって社会人生活を送っていくべきか」を親父と相談したり、仲間と勉強会をしたりして考えていた。その時の結論として「社会人30年成長説」というのを仲間と作った。


最初の10年は「修行」だ。とにかく、言われたことは何でもやる。次の10年、ここは「余人をもって代えがたし」。「あれは、泉谷に任しておいたら、できる」という得意技を持って、少しずつ自己主張をしていく。そして次の21年目からの10年、この頃は「会社を離れて生きよう」、「会社を外から見よう」。20年も30年も同じ所で仕事をしていれば、おそらくタコツボ人生になって、「社内の常識、社会の非常識」みたいなことになるのではないか。そこ以外では生きられない人間になってしまうんではないか。そんな危機感を持っていた。不安定な時代であるので、いろんなことがこれから変わっていくだろう、今と同じ考え方で生きていけるのか、そんなことを考えながら社会人生活をスタートした。




最初の辞令は工場勤務、「言われたことは、きちんとやる」


営業希望でアサヒビールに入り、研修が終わって配属が発表になった。事務系で50人弱が入ったのだが、そのうちの2人、私ともう一人だけが、最初の辞令が工場勤務だった。周りの奴は「あいつは営業不適格」、私も「営業不適格という判を押されたのかな」とショックを受けた。福岡・博多工場の倉庫課に配属された。倉庫課は、世の中に出た瓶が工場へ帰ってきて、瓶と箱をきれいに洗い、もう1回次のビールを詰めて準備をするという、力作業の職場だった。300人ぐらいを使う現場監督としてスタートした。最初はできないわけだから、みんなと一緒に肉体労働をする。夏は上半身裸で、とにかくガンガン働く。終わると、「一杯飲みに行こう」と言って、焼酎の一升瓶をドーンと置かれて、飲むまで帰らせてもらえない。

翌年、工場の中の庶務課に異動した。庶務課は何でもやる課で、現場から「トイレが詰まった」と言われれば、スパナを持って直しに行く、大雨が降れば泥水かきをやる。2年目も肉体労働だった。3年目は工場内の総務課に異動。給与計算、資材調達などをやった。5年目には、工場の事務系の仕事はほとんどできるようになった。「言われたことを確実にやる」ということは、だんだん言われる注文のレベルと量が上がってくる。それから部門を超えてくる。周りの人たちが私に難しい注文をすることによって、私は育てられた。それによって、周りの人たちから「あいつは、ちゃんとやるぞ。まじめな奴だ。夜の酒も付き合う」と言われる。これは、ある種の人気だ。そういう風になってくると、仕事はすごくしやすくなる。


その後、縁があって、労働組合の専従を6年やった。後半の3年は書記長で、会社との団体交渉の窓口をすべて私がやった。当時のアサヒビールの業績はどん底で、シェアは10%を割っていた。業績が下がると、リストラが起こってしまう。2600人ぐらいの組合員がいたが、リストラで500人強が会社を去ることになった。私は20代後半で、自分の父親・母親のような年齢の先輩社員に「退職するか残るか」の意思確認をする仕事をやり、大変つらい思いをした。仮に将来、経営者になるようなことがあったら、「社員の雇用を守れない経営者ではダメだ」と思った。


この時代のことを振り返ってみると、同期の連中が「アサヒビール」と書いた車に乗って営業に回っている。彼らがたまに工場に来る。私は作業服を着て作業をしているわけだが、それを見て、彼らがバカにする。「お前は不適格者で営業から外されたんだ」と言いたいことを言う。嫌な思いも多少したが、自分で決めた「言われたことは、やる」の姿勢をやめたら、社内の応援者もいなくなるし、人気も出ない、仕事もできない。こういった意味で、「言われたことは、きちんとやる」という積み重ねは、今の地位になっても同じだ。




社長から声が掛かり、CI戦略の専任ポストに


次の10年だが、労働組合から戻ってきて広報部に復職をした。ある時、社長からお呼びがかかって、「うちはCI(コーポレート・アイデンティティー)の手法を導入して経営改革をやる必要がある。君、専任事務局をやってくれ」と言われた。私はその時、「CI」の意味がわからなかった。八重洲ブックセンターにとんでいって、「CI」とか「企業文化」とかの本を片っ端から買ってきた。一晩徹夜して、それを全部読んだ。翌日、社長の所に行って「デザイン変更だけのCIではダメですよ。社員の気持ち、企業の行動、ビジュアル、この3つをアイデンティファイすることがCI戦略の基本だと思いますが、いかがですか」と言った。社長には「バカもん。お前ごときにそんなことを教えてもらう筋合いはない。俺はわかっている。お前たちがわかっていないから、勉強してお前が事務局をやれという指示をしているんだ」と怒られたが、最後にニコッと笑って「頼むぞ」と言われた。


私は燃えた。次の日、もう1回本を読み直して、「これは面白い」と思った。なぜなら、CIという言葉を社内の人はほとんど知らない。僕はちょっとだけ勉強したので、ちょっと頭を前に出せる。なおかつ社長の錦の御旗付きだ。これこそ「余人をもって代えがたし」、他人の持っていないところに自分の強みが発揮できる、そんな気持ちで、「これはチャンスだ」と思って取り組んだ。


それから4年間、本当によく働いた。1986年1月に新しい会社のマークを発表し、コーポレートカラーをブルーと赤にした。発表の前に半年間、正月も休まずに仕事をした。まったく疲れなかった。仕事というのは、本当に燃えて面白くなってやっていれば、いくら無理をしても体は壊れない、という自負心を持った。


その後、スーパードライが登場して、業績がV字回復に向かうという歴史になった。CI手法の導入に関して社長から指示を受けた時に「やったこともないことを、やりたくない」などと言って逃げていたら、今日の私はない。そういう意味では、社長からこういう指示を受けたことは、大変感謝している。私も今、社長・会長として、若い社員にそういうチャンスを与えてやりたいといつも思っている。




初代の課長、部長に就任


次の10年、21年目から30年だが、CIの導入をやっているプロセスで、コーポレート・コミュニケーションという戦略がアメリカで出てきた。従来、商品だけをコミュニケーションするという戦略が一般的だったが、その背景にある会社の考え方をしっかり知らせることによって、会社の考え方と商品を同時に理解してもらう。そのことによってお客様に私たちの商品を選んでいただく、こういうコミュニケーション戦略だ。「これをやりたい」と提案し、広報部の中に広報企画課という課をつくってもらい、初代の課長に就任した。スーパードライがヒットしたおかげで、私の考えた戦略がみごとに実験できた。


その後社長が交代し、いよいよ国際会計基準が入ってくることになった。そうなると、従来の親会社経営ではなくて、グループ連結経営に変えていかなくてはならない。さらには、グローバルな展開を考えていかなくてはならない。そこで社長から「経営改革をしろ」というテーマを頂戴した。経営企画部の部長になったのだが、ここは財務部、昔の経理部の巣だった。私のようなよそ者が入ってくると、経理部の人たちは私に口をきかない。私は社長から経営改革を求められているので、管理会計でものを見ていく。「管理会計で数字を出してくれ」と言っても、出してくれない。翌年、新しく「経営戦略部」という新しい部をつくった。私は初代の部長になり、ここで戦略を考えることをスタートした。


この30代の10年間は、新しい課、新しい部をつくって、そこで新しいことに挑戦する、初代の仕事をずっとやってきた。「言われたことは、やり切る」、「余人をもって代えがたし」ということをやっているうちに、「言われたことは、できるんじゃないか」という感覚にだんだんなってきた。「できるんじゃないか」という自信が出てきて、まずスタートができる。怖くなくなった。今は「言われたことは、できるだろう」という感覚なので、何をテーマにくれるだろうと、楽しみになってきた。そんな時代でもあった。




経営とは他人を幸せにすることだ


入社28年目の2000年に、52歳で執行役員になり、グループ経営戦略本部長という職に就いた。このポストも新設で、初代の本部長だった。経営の一端を担うことになったので、「経営は一体何だろう」とこの時期、考えた。「経営」という言葉が世界で初めて出てくるのは、中国の紀元前8世紀。周の時代。「詩経」に「これを経しこれを営す」という言葉として出てくる。これは、建物の外に外柵を立てて建物を維持する、といった意味で使っている。日本では、1300年代後半の「太平記」に出てくる。ここでは、「どうすれば極楽に行けるか」を考えている。お堂を建て、そこに人々を招いて安寧の世界に浸らせ、また俗世間に帰って気持ちよく生きていけるようにする。あるいは、いろいろ他人のために世話や用事をする。つまり「経営とは他人を幸せにすることだ」と、古い文献を読んで私は理解した。




「沈黙を聞け」


この段階から、私にはメンター(精神的支援者)っぽい友達がいて、地位が上がるたびに私に言葉を送ってくれてきていた。執行役員になった時は「沈黙を聞け」という言葉だった。「例えば、今まで君が部長の時には、課長に一から十まで、指示をしただろう。役員になったということは、今度は部長に指示をする。部長に一から十まで説明していたら、部長は成長しない。ではどうするか。一から三で、説明を止めろ。そしたら、向こうも考え始める。その時沈黙が起こる。その沈黙を我慢しろ。『社長がおっしゃったのは、こういうことですね。こういう具合でいいですか』と言って、相手が自分で考えて理解して納得したら、一番強い理解になる」。この時言われたのは「お前は、我慢をすることを覚えよ。もう一つは謙虚になれ」という教えだった。


ただ、当時私も役員になったばかりで気合が入っており、戦略部門の本部長をやっていたわけだが、「これだけではものは動かない。人、モノ、カネを押さえないと」と考え、人事と財務と広報を統括する新しい本部をつくった。ここまでやると、役員に中にも快く思わない人も出てきて、改革の仕事を一時期外された。「営業をやらせてやる」との話で、初めての営業の仕事が東京支社長だった。一番売り上げが大きくて、一番利益が大きい、ただし一番シェアが低い。ここを任された。「3年かけてやろう」と考えて、300人ぐらいいた人たちと勉強会をやりながら取り組んでいた。




「気を摑み、気を動かせ」


ところが1年3カ月経ったら、社長から電話があり、「本社へ帰ってこい。もう営業はいい。本社の改革が動かない」と言われて、本社に戻された。その2年後の入社31年目、56歳で取締役に就任した。取締役と執行役員では、ミッションが違う。取締役はラインから離れて経営全体を監視していく役目だ。当時、外国人株主の持ち株比率も上がってきており、ガバナンスをどうしていくのかということが社会的な問題になっていた。この時に送られてきたのは「気を摑み、気を動かせ」という言葉だった。取締役はラインの会議に出ることがある。そういった際にも、役員として、ビシッと締めなくてはいけない。ところが実務の細かいところはわからない。瞬間的に会議の場の空気を摑んで、この空気を引き締める、あるいは強いメッセージを発信する、といった気を動かすことができないとダメだぞ、ということだった。そのためにはまず、教養を身につけろ、仕事だけではダメだ。世の中の一般常識、歴史、文化を勉強しろ。それから、権威を持て。権威と権力は違う。権威は、下から見「あの人はすごいな」と思われること。権力は上から叩くことで、これはダメだ。それから、情熱を持て。燃えている人間の言うことには迫力がある。理屈でしゃべっている人間とは、全然違う。社員の100倍の情熱を持て、と教えられた。


その翌年に常務取締役に就任した。この時に送られた言葉は「恕」。これは仏教用語だ。常務以上になると、現場の社員から見ると、「雲の上の人」になってしまって、たまに会っても気楽に声をかけられない。「恕」は思いやり、下に降りていくということ。「降りていかない限り、声が聞こえなくなるぞ。裸の王様になるぞ」と教えられた。これをやるためには、現場で1円1円カネを稼いでいる社員に対して本当に感謝をしているか、彼らがやっていることに対して謙虚な気持ちを持っているか、これが必要だと教えられた。


2006年に常務取締役のままで、お酒の事業全体に責任を負う、酒類本部長になった。酒類本部長は売る方の本部長で、商品を作るのを誰がやっているかというと、マーケティング本部長だった。いつものパターンで、ここも取りにいき、その翌年にはマーケティング本部長も兼務した。責任を取らされるなら、全部やらせてくれというのが、私の主義だ。この時に送られてきた言葉は「人の心に影響を与えよ」ということだった。当時、約3千人の営業体制だった。この3千人の社員に東京からいくら指示を出したって、届くわけがない。大軍の将の器には、心で引っ張ることが必要。そのためにはまず、大将としての哲学を持っているか。それから目標を定めているか。何が本質的に問題なのかを見抜いているか。そして威風堂々としているか。こういう重みがあってこそ、人間を生かすことにつながる。人を生かすためにリーダーがやらなくてはならないのが、哲学であり、目標であり、本質を見抜く力であり、威風堂々とした態度である、と教えられた。


入社37年目の61歳で専務になった。この時送られてきた言葉は「常に大義を考えよ」。専務は外に向かって責任を持って行動する立場。だから大義を考える必要がある。我々は何者なのか、何のためにこの会社は存在するのか、我々は誰にどういう満足を与えようとしているのか。こういったことを考えて、「社内ではなく、世の中に向かって仕事をしろ」と教えられた。




社長に就任、「山頂の松に学べ」


そして専務になった年の12月末に当時の社長に呼び出された。「君、社長をやってくれるか」の一言だった。普通は「青天の霹靂です」とか「私は無理です」とか、儀礼上言わないといけないらしいが、私は「わかりました。やらせていただきます」と答えた。ものすごく緊張し、胃が痛くなった。トップの重圧というのはものすごいものだと感じた。その時に送ってきた言葉が「山頂の松に学べ」。社長は山の上に、1本の柱としている。社員はみんなふもとにいて、下から見ている。山頂の様子は、社員はわからない。ものすごい雨風が吹く、木が揺すられる、枝がボキボキ折れる。でも社長は倒れるわけにはいかない。それがつらさだ。しかし、お前が今までの人生で、いろんな人にちゃんと感謝をし、謙虚な接し方をしてきていれば、たぶんそこに「徳の根」が張っているはずだ。「徳の根」が張っている限り、倒れることを心配することはない。頑張ってやれ、という言葉だった。


社長業も1年3カ月で、ホールディング制を導入した。先の10年を考えると、アサヒビールという会社もグローバルな展開が必要だ。日本のビールは1994年がピークで、そこから市場は25%縮小している。国内でシェアを上げても売り上げが伸びない。だからグローバルに展開をしなくてはならない。そのために、国内の仕事をしながら、海外の仕事をするのは、時間的に難しい。私はホールディングに専念することにした。ホールディングも初代の社長だった。課長・部長・本部長・社長、この30年間で4回、初代の仕事をやった。社長になるまで、部長から15年、平取から10年、常務から5年、専務から1年。最後に力をつけてトップに上がってくる時には、スピードがグワーッと上がる。このスピードに付いていけるかどうかだ。自分の能力をこのスピードで上げていけるかどうか。




会長は尾翼、ブレーキの役割


2016年に68歳になり、会長に就任した。すべて経営の執行は社長に任せた。就任の翌月、全社員を集めて宣言した。「我が社を飛行機に例えるならば、主翼・パイロットが社長だ。私は会長として、尾翼とブレーキの役割を果たす。社員のみなさは社長の方を向いて、そしてエンジンをふかせて真っすぐに飛び続けてください。何かおかしくなったら、私が尾翼で方向を少し曲げるか、ブレーキを踏むかします」。こういう話をした。


社長が数字を追いかけなくてはならない時に、会長は人の温かみと痛みがわかって、そういうものを後ろからバックアップしていく、そういう役割でやっていけたらと思っている。


本日のテーマ「信念、矜持、概念」の意味について、簡単に話をしたい。「信念」という字、これは、「今の心を人に言う」だ。我田引水ではダメで、いろんな人と話し合うことで今の心を高め、それを人に話すことによって仲間ができる。「矜持」、これは矛(ほこ)、刀、今持っている刀ということだ。それぞれ年齢、経験によって、個性・能力を持っている。自分の持っている刀、能力に自信を持ってチャレンジする。「気概」、これは「すでに持っている気持ち」。自分がどういう目標、どういう思いを持って生活をしているのか、仕事をしているのか、そういうことをしっかりと気持ちを持つこと。それで強い自分がつくれる。周りの人とも協調できる人間になれる。この3つの言葉を私は大事にしている。




父の言葉、「いぶし銀で勝負しろ」


社長在任中に父親が亡くなった。92歳だった。何回が見舞いに行っている時に、こういうことを言われた。「いつまで社長をやるか知らないが、いぶし銀の実力で勝負しろ。社長になったら金メダルだ。周りの人もチヤホヤする。本当に大事なのは金ではなくて、銀なのだ。銀もいぶし銀だ。いぶした銀はほっておくとすぐ真っ黒になり、光の輝きを失う。いぶし銀は磨いていると光を保てる。それに必要なのが働く人間としてのお前の努力だ。社長であっても、いぶし銀の実力で勝負し続けろ」。それが最後の親父の話だった。

2017/11/20

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